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2023年04月16日
宇栄原の読み方は・・・
ここからの続きです。
「宇栄原小学校」の読み方についての中間報告です。
沖縄県立図書館にて調べましたが、所蔵資料が乏しく、詳細は分かりませんでした。
ただし『創立十周年記念誌 うえはら 昭和57年11月』(那覇市立宇栄原小学校 昭和58年2月)の中(p.35)に、校名の変遷に関する記述がありましたので以下、本文を引用します。
----------
「うえばる」か「うえはら」か 四代PTA会長 田盛英範
「皆さんは、今日から、うえばる小学校の生徒です」と初代金城徹校長先生の挨拶が始まりますと、生徒の中から、ざわめきが起こりました。
校長先生はじめ諸先生方は何事が起ったのかと調べると「うえばる」ではなく「うえはら小学校」だと生徒から校長先生への反論です。
これは昭和47年4月10日、高良小学校に於いて本校の開校式での、金城徹校長先生の式辞の一コマです。
その後、校長先生はどうしたものか、PTAの集まりや、何か事あるごとに濁って呼ぶ「うえばる」を持ち出し、近くに田原、遠くに歌で名高い濁って呼ぶ田原坂を引用して「うえばる」を主張することしきり。
しかし、その「うえばる」の呼び名もいつ、誰の発議によって改められたというのではなく、主人公の生徒に軍配があがり、現在では清音で「宇栄原小学校」と内外ともに親しく呼ばれ、今日、栄えある十週年を迎えられ心からお祝い申し上げます。
以下は個別に聞き取り調査した内容です。
▼Tさん(50歳代)
あ、それ経緯はよく分からないのですが、子供達が宇栄原小に通う時に知りました。
私も読み方が変わったのを知ってなんかショックだったのを覚えてます。
経緯はなんだろう。。。もし耳にしたら報告しますね!
▼Uさん(50歳代)
宇栄原の原(ばる)の呼称についてです。
なぜ『うえはら』と呼ぶようになったのかの経緯については不明ですが、原(ばる)の呼称について調べてみました。
私の職場の医師(宮﨑出身)によると、九州には、宇栄原と同じように原を”ばる”と呼ぶことは普通のことの様です。
実際に宮崎県はじめ熊本や大分・福岡にも原をばると呼ぶ 地名が多くあります。
面白いことにその多くは、宇栄原と同じように漢字3文字です。
原(ばる)の起源については、幾つかの説がありますが、どれも確信に欠けており、いまだ不明のようです。
その中で、私がもっともらしい説は、万葉集にある和歌にありました。
傾斜地に切り開かれた所(開拓地)を原と書いて”ばる”と呼称していたようです。
沖縄では、農家のことをハルサーと呼称しています。
沖縄では原は、おそらく畑のことをさしており、畑の人でハルサーとなっているのではないかと推測します。
沖縄の原野を切り開いて、田畑にしてきた先人達(はるさー)。
琉球時代には田原や宇栄原地域は集落から離れた場所で畑や田んぼが多くあった場所です。
豊かな畑がなくなり、団地や住宅地になった小禄地区、うえばるをうえはらと呼称することもやむを得ない気がします。
▼Aさん(70歳代)
元々のうるくんちゅではない所謂(いわゆる)寄留民の方々が学校の名付け親になったとのことのようです。
同様に豊見城高校の場合もそのように聞いています。
▼Tさん(60歳代)
初代着任した校長先生が宇栄原を「うえばる」と読まずに「うえはら」と読んだと聞きましたが…。
息子が入学式に「うえはら」小学校と聞いた時に疑問だったのですが(笑)。
一番いいのは、所管する、那覇市教育委員会学校指導課に聞くのが早いかな(笑)。
50年前の話しだと思いますが。
学校設置に関する事項があると思います。
▼Tさん(50歳代)
正式名称が「うえはら小」らしく校歌も「うえはら小」と歌います。
設立当初、住所は小禄なのに宇栄原(うえばる)と言うのか?
など議論があったようです。
が詳細までは分からないです。
豊見城市(とみぐすくし)と豊見城高校(とみしろこうこう)の類だとしか思ってなかったです。
▼Kさん(40歳代)
私は寄留民なので、詳しくないですが、子供が入学した時から、校歌は「うえはらしょうー」でした。
「うえばる」がいいです。
▼Fさん(60歳代)
『那覇市教育史』にないでしょうか?
実にくだらない理由で、ときの校長や有力者が好き勝手していることがあり、学校便りなどにのっていることがあります。
▼Uさん(50歳代)
まあ、好き勝手してということではないと思うのですが、沖縄読みすることを嫌い、敢えて本土読みに合わせたりという時代背景もあったのではと推測します。
ちょうど本土復帰の年に宇栄原小学校は開校しました!
「宇栄原小学校」の読み方についての中間報告です。
沖縄県立図書館にて調べましたが、所蔵資料が乏しく、詳細は分かりませんでした。
ただし『創立十周年記念誌 うえはら 昭和57年11月』(那覇市立宇栄原小学校 昭和58年2月)の中(p.35)に、校名の変遷に関する記述がありましたので以下、本文を引用します。
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「うえばる」か「うえはら」か 四代PTA会長 田盛英範
「皆さんは、今日から、うえばる小学校の生徒です」と初代金城徹校長先生の挨拶が始まりますと、生徒の中から、ざわめきが起こりました。
校長先生はじめ諸先生方は何事が起ったのかと調べると「うえばる」ではなく「うえはら小学校」だと生徒から校長先生への反論です。
これは昭和47年4月10日、高良小学校に於いて本校の開校式での、金城徹校長先生の式辞の一コマです。
その後、校長先生はどうしたものか、PTAの集まりや、何か事あるごとに濁って呼ぶ「うえばる」を持ち出し、近くに田原、遠くに歌で名高い濁って呼ぶ田原坂を引用して「うえばる」を主張することしきり。
しかし、その「うえばる」の呼び名もいつ、誰の発議によって改められたというのではなく、主人公の生徒に軍配があがり、現在では清音で「宇栄原小学校」と内外ともに親しく呼ばれ、今日、栄えある十週年を迎えられ心からお祝い申し上げます。
以下は個別に聞き取り調査した内容です。
▼Tさん(50歳代)
あ、それ経緯はよく分からないのですが、子供達が宇栄原小に通う時に知りました。
私も読み方が変わったのを知ってなんかショックだったのを覚えてます。
経緯はなんだろう。。。もし耳にしたら報告しますね!
▼Uさん(50歳代)
宇栄原の原(ばる)の呼称についてです。
なぜ『うえはら』と呼ぶようになったのかの経緯については不明ですが、原(ばる)の呼称について調べてみました。
私の職場の医師(宮﨑出身)によると、九州には、宇栄原と同じように原を”ばる”と呼ぶことは普通のことの様です。
実際に宮崎県はじめ熊本や大分・福岡にも原をばると呼ぶ 地名が多くあります。
面白いことにその多くは、宇栄原と同じように漢字3文字です。
原(ばる)の起源については、幾つかの説がありますが、どれも確信に欠けており、いまだ不明のようです。
その中で、私がもっともらしい説は、万葉集にある和歌にありました。
傾斜地に切り開かれた所(開拓地)を原と書いて”ばる”と呼称していたようです。
沖縄では、農家のことをハルサーと呼称しています。
沖縄では原は、おそらく畑のことをさしており、畑の人でハルサーとなっているのではないかと推測します。
沖縄の原野を切り開いて、田畑にしてきた先人達(はるさー)。
琉球時代には田原や宇栄原地域は集落から離れた場所で畑や田んぼが多くあった場所です。
豊かな畑がなくなり、団地や住宅地になった小禄地区、うえばるをうえはらと呼称することもやむを得ない気がします。
▼Aさん(70歳代)
元々のうるくんちゅではない所謂(いわゆる)寄留民の方々が学校の名付け親になったとのことのようです。
同様に豊見城高校の場合もそのように聞いています。
▼Tさん(60歳代)
初代着任した校長先生が宇栄原を「うえばる」と読まずに「うえはら」と読んだと聞きましたが…。
息子が入学式に「うえはら」小学校と聞いた時に疑問だったのですが(笑)。
一番いいのは、所管する、那覇市教育委員会学校指導課に聞くのが早いかな(笑)。
50年前の話しだと思いますが。
学校設置に関する事項があると思います。
▼Tさん(50歳代)
正式名称が「うえはら小」らしく校歌も「うえはら小」と歌います。
設立当初、住所は小禄なのに宇栄原(うえばる)と言うのか?
など議論があったようです。
が詳細までは分からないです。
豊見城市(とみぐすくし)と豊見城高校(とみしろこうこう)の類だとしか思ってなかったです。
▼Kさん(40歳代)
私は寄留民なので、詳しくないですが、子供が入学した時から、校歌は「うえはらしょうー」でした。
「うえばる」がいいです。
▼Fさん(60歳代)
『那覇市教育史』にないでしょうか?
実にくだらない理由で、ときの校長や有力者が好き勝手していることがあり、学校便りなどにのっていることがあります。
▼Uさん(50歳代)
まあ、好き勝手してということではないと思うのですが、沖縄読みすることを嫌い、敢えて本土読みに合わせたりという時代背景もあったのではと推測します。
ちょうど本土復帰の年に宇栄原小学校は開校しました!
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